黒澤明の映画音楽
僕がアムウェイに入信するんじゃないかと思っているみなさん、こんにちは。本当はこういった至極マジメなものよりも、ソフトな話題を扱いたいんですが、サイトを移して第一回ということで真面目にやることにしました。
「ソフトなものを」と言いつつも、自分の場合、ある程度情報量の詰まった記事になりそうだということが幾つか記事を書いてきた中で分かって来ました。で、「それならはてなブログだよね」と思って居を移しました。
今回の記事、テーマは黒澤明の劇伴の特徴です。黒澤の画的な特徴としては、「人物の動きを意識したダイナミズム(会話中の人物を画の中で動かす、その動きに合わせてフレーミングを工夫する)」「自然物との調和(山の中での撮影、草木で構図を作る、カメラを太陽に向ける)」「役者の鬼気迫る演技」など黒澤映画を見た人には一般的に感じられるような点が挙げられます。
しかし、その映画音楽となるとどうでしょうか。そもそも劇伴というのはそれ自体が観客の意識上に浮き上がらないように控えめな態度に徹しながら、シナリオ上の緩急、キャラクターの心情の機微に観客をいざなう役割を担ったものであるため、意識的に注目しない限りはその機能構造を把握するのは難しいと思われます。
先に挙げた画的なこだわりの他に、黒澤は音楽に対しても異常なまでのこだわりを見せる映画監督でした。「乱(1985)」にて劇伴を担当した武満徹(1930~1996、勅使河原宏「砂の女(1964)」、成瀬巳喜男「乱れ雲(1967)」等の劇伴も担当)は、その要求のしつこさのあまり、「乱」を最後に黒澤作品の音楽担当を退いています。
黒澤の音楽に対する姿勢が現れた劇伴には、後に映画音楽のセオリーとして確立、明文化されていく手法がふんだんに使われています。1990年アカデミー賞授賞式で、スティーブン・スピルバーグ、ジョージ・ルーカス両監督は、名誉賞を受賞した黒澤に対して、「現役の世界最高の監督です。“映画とは何か”に答えた数少ない映画人の彼にこの賞を贈ります」という言葉を贈ります。この言葉を踏まえて見ると、黒澤の作品では時間と空間の芸術である映画の面目躍如とするところを音楽が上手く引き出しているように思えます。
この記事は自分が留学先で受けていた映画音楽の授業で発表したプレゼンテーションを基にしています。まだ何を言っているかよくわからないと思いますが、ここから先はプレゼンテーションで使用した動画を引用しながら進めていきますので、ご安心ください。
1.クラシック音楽のモチーフ
2.汎東洋主義
3.対位法
4.特殊対位法
5.ライトモチーフ
6.まとめ
1.クラシック音楽のモチーフ
黒澤は像が想起する音楽に対して明確なイメージを持っており、そのイメージの元となっていたのがクラシック音楽の楽曲でした。黒澤は劇伴の作曲家に対して「ここはこれこれこういうイメージだからこの曲を参考にして作ってほしい」としつこく注文を付けていたようで、作曲家たちが不満をもらしたのもよくわかります。
このような劇伴作成の手法をテンプトラックといいます。テンプトラックでは、劇伴の打ち合わせにおいて、監督のイメージする既存曲を映像に当てた参考素材が監督に提示されます。具体的な例として、「羅生門(1950)」のワンシーンを見てみましょう。
この曲の元ネタはラヴェルのボレロです。羅生門版ボレロはこのシーンの他に、検非違使のシーンにおいて鬼気迫る真砂の証言に当てられています。黒澤曰く、「陶酔感が欲しかった」とのことですが、リズムの一定さが逆説的に導く「ある特定の点に向かっているような志向性」「気分の段階的高揚」もこういったタイプの劇伴音楽の効果と言えます。
2.汎東洋主義
羅生門の音楽を手掛けた早坂文雄(1914~1955)が唱えた思想に「汎東洋主義」というのがあります。戦前の楽壇を席巻していた民族主義思想に影響を受けた思想で、早坂は「日本的なもの」の表現はどうあるべきかについて悩み、真摯に取り組んだ作曲家でした。さらに早坂は「わが国独自の美は、東洋的原始に還ることによってのみ得られる」とし、東洋的音楽を西洋のそれとの対立軸上でとらえようとします。以下、『月刊楽譜』1940年11月号に掲載された早坂の論文からの引用です。
われわれは国民主義的作品を書くといっても、単に日本的に響く作品を書くことが最後の目的ではない。そしてかかれた作品が単に日本的であるからということに問題があるわけでもない。要は生んだ作品が国民的民族的性格の上に立脚して、そのものが時代的に見て発展性があるか否か、人種を超越して芸術の最後へ行きつく広々としたかつ深さをたたえた内容を持つ魂の芸術であるか否かに存する。国民主義的作品を書く場合必ずペンタトニィクを使うか否かということも、その手段や手法が問題になるのではなく、それをいかに駆使するかにあろう。と同時に素材のことでも、民謡を採用するしない或いは朝鮮や台湾や支那の素材を使用し音楽上の一要素や手法に東洋的形態を持たせることに問題があるわけでなくて、やはり究極はその書かれたものの内容、本質的な魂である。いかにかくかにあろう。であるから手法や素材にのみとらわれていては真の創作はなされないであろうしこれからの日本の作曲界は外形上の日本的作品だけでは通用しなくなる。われわれはいま述べたそれらのものを最後の段階においては超越して、世界的に普遍性のあるものを書き、我々の民族的精神を世界の芸術の中に保有させようというものである。
映像と音楽における”収斂”には3種類あります。映像中のアクションに伴う(SEとは異なる)「物理的収斂」、楽器構成、音色などを工夫することでキャラクターの感情表現を補助する「感情的収斂」、そして、特定の地域を想起させるような民族楽器、音階を採用した「文化的収斂」です。黒澤は、「日本的な音楽」を目指した早坂の思想を逆手にとって(?)自らの日本的映像作品の劇伴とすることでこの「文化的収斂」を実現しました。もう一度先ほどの羅生門のボレロを、本家との違いに注目しながら聞いてみましょう。
3.対位法
対位法というのは、簡単に言ってしまえば「映像から得られる印象とは真逆のイメージを生む音楽を当てる手法」です。要するに、敢えてギャップを作りそのシーンを印象付ける、というものです。他作品で具体例を挙げるとすれば、最も有名なのは「エヴェンゲリオン」の「今日の日はさようなら」でしょうか。
対位法は黒澤映画の劇伴を語る上でよく用いられる切り口です。そのなかでも最も有名なシーンと言われるのが、「生きる(1952)」の「ハッピーバースデイトゥーユー」です。「生きる」は、癌に侵され余命幾許も無い市民課長、渡辺が部下の女性、小田切との交流を通して、絶望から立ち直って公園建設に奮闘し晴れ晴れとした死を迎える、というお話です。「ハーッピーバースデイトゥーユー」が流れるシーンでは、渡辺が余命を全うしようと決め奮起する瞬間を描いています。
思いつめた表情の渡辺、その渡辺の異常さを怖がる小田切がそれぞれ交互に、アップで映され緊迫感が演出されています。この時点で対位法的な劇伴演出も始まっており、場にそぐわない、軽快なマーチが流れています。しかし、渡辺は急に顔を上げると「まだ遅くない。まだ何かできるはずだ」と自分に言い聞かせながら席を立ち、レストランの2階席から階段を駆け下りていきます。タイミングを同じくして、学生たちが欄干に集まりだし、「ハッピーバースデイトゥーユー」を歌い始めます。渡辺と入れ違いになる形で女学生が階段を上がってくることで話の筋が通されていますが、この「ハッピーバースデイトゥーユー」の表現するところは、新しく生まれ変わった渡辺そのものであると感じます。
4.特殊対位法
「特殊対位法」という言葉は自分で勝手につくりました。スペイン語でのプレゼンでは"contrapunto hueco(空の対位法)"という単語を当てました。なぜ「空(から)」かというと、本来音楽が付いていて良い、むしろ付いていないとおかしいようなシーンに敢えて音楽をつけていないからです。いくつか例を見ていきましょう。
一つ目は「野良犬(1949)」から。戦争直後の東京を舞台に、拳銃を盗まれた警察官村上が盗んだ犯人を追いかける様を描いた黒澤明初のサスペンス作品になります。引用は村上が犯人を追い詰める最終盤のシーンです。動画冒頭と最後は単純な対位法演出になっています。冒頭は、にらみ合う二人に、音楽教室で小学校低学年レベルの課題曲とされるようなゆったりとしたピアノが当てられており、最後は、疲れ果て空を見上げて寝転がる二人の近くを幼稚園児が「ちょうちょ」を歌いながら通り過ぎます。
にらみ合いのカットの後で明らかになりますが、ピアノを引いているのは、二人がにらみ合っている茂みから数十メートル離れた家の少女です。犯人の持つ拳銃が銃声を発すると、少女はピアノを弾いていた手を止め窓から外を伺います。しかし、彼女の家から数十メートル離れた茂みの中にいる二人は見えません。少女は目をこすりながら席に戻りもう一度ピアノを弾き始めます。
この映画のサブテーマに「戦争」があります。「野良犬」では、戦後、荒廃した街に復員したものの身寄りのない人々が寄り集まっている姿や闇市の様子が少ししつこく感じる程度に描かれています。また、犯人自身も戦争と自分を受け入れてくれない戦後社会に翻弄された存在として描かれています。この要素と照らし合わせると、少女と幼稚園児たちは「戦争」とは遠いところにいる存在であることが読み取れると思います。この少女と幼稚園児たちを通して黒澤が伝えたかったことが、「若者には戦争を体験してほしくない」という切望なのか、はたまた「若者は戦争から目を背け平和ボケしている!」なのかは定かではありませんが、いずれにせよ少女と幼稚園児たちの登場はこのシーンのみにもかかわらず、サブテーマに結びをもたらす欠かせない存在となっています。
犯人が2発目を撃ったところで完全にピアノが止まり、村上と犯人による取っ組み合いが始まります。聞こえてくるのは2人が転げまわることによって生じる草木のこすれる音や沼の水が跳ねる音のみ。この部分が特殊対位法になります。特殊対位法を用いることで黒澤はリアリズムを強調しています。数ある芸術媒体の中で、映画は「連続的多面的な“人間のリアル”」「2次元空間の外にいるホンモノの人間と同じ姿、同じ音、同じ動きを実現することができる“リアルな人間”」を描くうえで最も優れているように思います。この映画の最も優れた点を引き出すために、このシーンにおいて黒澤は映像の中に存在しない音、つまり、劇伴を敢えて当てることをしなかったのだろうと思います。記事冒頭にスピルバーグらの言葉を引用しましたが、このリアリズムと映画音楽の皮肉な関係性が黒澤の“映画に対する答え”の一つなのではないかと思います。
二つ目は「羅生門」からです。多襄丸、金沢、真砂が語った話がどれもこれもエゴから来る嘘であったことが判明した後、本当は何が起こったのかを提示するシーンがこの場面です。野良犬と同じように、大げさな演技で画に迫力を出し、音は地面の枯草がこすれる程度にとどまっています。特にこの映画では、3人それぞれの証言に基づきながら現場の再現をする似たり寄ったりなシーンが繰り返されます。その中で唯一劇伴のないこのシーンでは、音楽の不在が「このシーンこそ真実である」ことを示し観客の理解を助けるものになっています。
5.ライトモチーフ
ライトモチーフというのは、「オペラや交響詩などの楽曲中において特定の人物や状況などと結びつけられ、繰り返し使われる短い主題」です。もう少し詳しいコトバンクの解説も載せておきます。
音楽用語。「主導動機」「示導動機」と訳され,ワーグナーの後期の楽劇のなかで,重要な人物,事物,想念などを表わす特定の動機。ドラマの発展に応じて,原形のまま用いられるだけでなく,基本的輪郭をとどめながら,リズム,音程などが変容されて現れ,作品の有機的展開と統一に資する。ワーグナー自身は「基本楽想」と呼んだ。
短いシークエンスの中に何度もライトモチーフが登場する好例としては、1989年ティム・バートン版バットマンの冒頭シーンがあります。
2:00, 2:52, 4:14の計3回、ライトモチーフが登場します。いずれもバットマンを表した、ブラスの力強さとマイナーが活きるダークヒーローっぽいライトモチーフです。
「七人の侍」は、山賊の襲撃に苦しむ農民たちが浪人を雇って山賊に対抗しようとするお話です。最初に雇われて後に侍たちのリーダーとなる勘兵衛に弟子入りを請う勝四郎のシーンと、後に仲間になる菊千代が勘兵衛に詰め寄るシーンとの比較です。後半の菊千代のシーンの音楽は、前半の「侍のテーマ」をアレンジしたものだと思われます。菊千代の滑稽な役回りをリズムや音色が表現しています。
前半とは打って変わり、映画の後半では、山賊との戦いに敗れ死んでいった仲間を弔う鎮魂歌としてのシナリオ的機能を持っています。おそらく早坂は侍のテーマのこのような二義的使い方を織り込み済みで、勇ましさを与えつつも、あっけらかんとした長調のテーマにはしなかったんだと思います。
「生きる」では歌がライトモチーフとして機能しています。渡辺が生き抜く決意を固めたシーンについてはもう書きましたが、その前と後でどう変わったかが、「ゴンドラの唄」が渡辺によって歌われる2シーンの比較から明らかにすることができます。
いのち短し 恋せよ乙女
あかき唇 あせぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものをいのち短し 恋せよ乙女
いざ手をとりて かの舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰れも 来ぬものをいのち短し 恋せよ乙女
波にただよう 舟のよに
君が柔わ手を 我が肩に
ここには人目も 無いものをいのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
「ゴンドラの唄」は大正時代の流行歌です。歌詞を読んで分かる通り、「命短し」だとか「明日の月日はないものを」だとか渡辺自身に刺さるような歌詞が度々登場します。動画前半は絶望した渡辺と居酒屋で出会った作家が「どうせならパァーッと遊びましょうよ!」と言って連れ出し訪れたキャバレーでのシーンです。華やかなキャバレーの雰囲気に反して、涙を浮かべながら思いつめた表情で歌う渡辺を見て、周囲の人間は「ハッピーバースデイトゥーユー」のシーンの小田切と同じように戸惑います。この悲壮感、絶望感、孤独感を最前面に出した前半とは異なり、ラストシーンのゴンドラの唄には生を全うした満足感が漂っています。雪がしんしんと降る公園でブランコに揺られながら死にゆく渡辺、その表情は帽子のつばが落とす影によって読みづらくなっているものの、どこか満ち足りているように見えます。
公園建設に奮闘した渡辺でしたが、官僚主義にどっぷり浸かった同僚達にはなかなか理解されず、急に気がふれてしまった変人だと思われていました。動画の終盤では、その役場の市民課メンバーの中で唯一渡辺を擁護していた同僚が高架から公園を見下ろしています。渡辺が作った公園、渡辺がその上で息絶えたブランコ、渡辺が生前かぶっていたような山高帽を被る同僚、彼が去るタイミングに合わせて流れ出すゴンドラの唄のインスト。これら3つのキーアイテムと1つのライトモチーフはこの同僚が渡辺のように、官僚主義に屈せず強く生きる決意を固めたことを表現しています。一般化して言い換えれば、ある特定の登場人物を象徴していたライトモチーフを別の登場人物に適用することで前者の性質を後者にも付与しているということです。劇伴とは関係ない話ですが、このシーンの直前にはこの同僚が書類の高く積まれた事務机に顔をうずめるシーンが入っています。葬式での渡辺に対する擁護→顔をうずめる(官僚主義への敗北)→公園を見下げての決意、という一連のシークエンスのなかにポジティブな裏切りが仕込まれておりラストシーンの指示対象が強調されています。
6.まとめ
分量からも分かってもらえると思いますが、結構書きごたえのある内容でした。ここで扱った作品は「羅生門」「生きる」「七人の侍」「野良犬」の4作品だけなので、黒澤作品一つ一つの中にいかにたくさんの映画音楽のエッセンスが詰め込まれているのかわかっていただけたのではないでしょうか。
黒澤作品について次に書きたいと思っているテーマはシェイクスピア翻案3作品「蜘蛛巣城」(「マクベス」の翻案)、「乱」(「リア王」の翻案)、「悪い奴ほどよく眠る」(「ハムレット」の翻案)です。音楽だけではなく作劇についても濃いものを書きたいと思っていて、色々調べるのにかなり時間がかかるので手を付けるのは随分先の話だと思います。